私達は、天地の恵である米や水に感謝するとともに、それらの個性を尊重した酒造りを志向します。「自然の恵みを微生物が醸して酒になる」という事実と真摯に向き合い、田んぼからの酒造りに取り組んでいます。
手造りであることを大切にしています。ばらつきのある天然原料を用い、複数の微生物が醸す酒造りには、蔵人の目と手仕事が不可欠です。手をかけるべきところに、きっちりと「手」をかけて酒を造ります。
世界に開かれた酒蔵を志し、自らの評価を世に問い続けます。東洋のローカル酒ではなく、日本が誇る世界の酒に数えていただけるよう、心を開き、新たな刺激と革新を求め続けてまいります。
安土桃山時代、慶長2年(西暦1597年)。初代・小嶋彌左衛門が現在の地で小嶋酒屋(当時)を創業したところから、小嶋総本店の歴史は始まります。当時の米沢は蒲生家のご領地であり、小嶋酒屋は酒造と質の兼業という形で創業いたしました。
小嶋家当主である小嶋彌左衛門の名は、創業以来代々襲名されており、現在の小嶋家当主・小嶋彌左衛門(弊社 代表取締役会長)が23代目となります。
創業より6年後、江戸幕府が開府します。米沢は上杉家二代目・上杉景勝公を初代藩主とし、以来、江戸時代を通して上杉家のご領地となります。
小嶋酒屋は城下の造り酒屋として上杉家御用酒屋を承り、以来、飢饉で米不足となり禁酒令が出された年にも酒造りを許された、数少ない酒蔵の1つであったとされています。(写真提供/米沢市上杉博物館・禁無断転載)
江戸中期、米の作柄に左右される酒造業と合わせて、小嶋酒屋は染屋も兼業していたと伝えられています。当時の東町水帳には小嶋彌左衛門の名があり、今と変わらぬ場所で事業を営んでいたことがわかります。
宝暦7年、小嶋彌左衛門は藩や町への功労により町年寄となり、二人半扶持の士分として苗字帯刀の身分となりました。以後、代々士分の扱いを受け、明治時代には「士族」であったとされています。(写真提供/米沢市上杉博物館・禁無断転載)
江戸時代後期、小嶋彌左衛門は祖父母への孝行を表彰され、町医師格へ昇格しました。当時の記録では酒造と質を営んでおり、寛政3年(西暦1791年)の酒造石数が490石、近隣の南組、北組の合計10蔵のうち最も多くの酒を製造していたと記されています。
当時、小嶋酒屋がある東町は参勤交代のお通り筋であり、堂々たる大名行列が町を練り歩いた時代でもありました。(写真提供/米沢市上杉博物館・禁無断転載)
それまで小嶋彌左衛門の個人事業であった小嶋酒屋を、小嶋総本店として株式会社化します。
小嶋総本店という社名は、酒造業を長く営む中で、いつしか米沢の酒類製造・卸・小売事業者に「小嶋(または小島)」とつく者が増え、それらの多くが小嶋彌左衛門家の親類であったことから、「本家」の意味合いも込めて名付けられたと言われています。
前年まで酒造りを行っていた酒蔵を改修し、「酒造資料館 東光の酒蔵」を開館いたしました。東北最大級の仕込蔵展示と、釘一本使わぬ伝統工法の住居部分を誇り、後年、米沢市景観賞を受賞します。
平成15年には現(令和)天皇、皇后が行啓され、23代・小嶋彌左衛門(現・代表取締役会長)がご案内いたしました。
英国ロンドンで開催される世界最大のワインコンペティション、インターナショナル・ワイン・チャレンジ2014のSAKE部門において、出品された全ての大吟醸における第1位評価を獲得、トロフィーを受賞しました。
「東光」は現在世界十数カ国に輸出され、世界各国でその品質とスタイルが認められ始めています。